ぱらりーそーしー日記

タイトルに特に意味はありません。子どもの造語がかわいかったので、タイトルに使いました。本、子育て、映画、旅行等。たまにしか投稿しませんが…

クネイトラ その2

事務所で説明してくれたシリアの人としばらく話をしていると、国連平和維持部隊に加わっている自衛隊の人達がやって来た。私達の姿を見ると、えらく驚いていた。そりゃそうだよな、こんなところで日本人に会うなんて。

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クネイトラで国連平和維持部隊の人に会う

彼らは6ヶ月交代でここへ来ているそうだ。主に東北の人達だった。他にオーストリア、カナダ、それからもう1ヶ国、どこかの国が来ているそうだ。

一度彼らとは別れたのだが、クネイトラからダマスカスへの帰路、中継地の街で再会した。さっき会った人達以外にも、若い人から中年の人まで、たくさんの人がいた。

彼らの多くはあと1ヶ月ほどで日本へ帰るので、土産物屋(国連グッズも売っている)へ出入りして、盾やネーム入り国連バスタオルを作ってもらったりしていた。

彼らは自衛隊内で高い倍率を勝ち抜いて来たらしい。そんな彼らは土産物屋のおじさんと仲よくなっていて、彼らの案内であっちこっちの土産物屋へ行った。

こうやって実際に活動してる彼らと会ってみると、国際的な平和維持活動のために働いている日本人に誇りを覚えもする。最後に彼らと一緒に写真を撮って別れた。

ダマスカスに戻ると、年越しパーティー用にケーキを買おうと「アポロ」という店へ行ったのだが、新年パーティー用のケーキばかりで、評判のショートケーキやアイスはなかった。明日は金曜日で休みだろうし、結局、食べ損ねだ。残念。

違うケーキ屋でケーキを買って帰り、晩の年越しラーメンの準備にかかる。
Jさんが持ってた辛ラーメン、スークで買ったピーマン、玉ねぎ、チキン屋で買ったハーフ・チキン、それらを宿の鍋で煮込んで、みんなで囲んだ。

23:00頃から宿の泊り客の欧米人達はパーティーを始めた。パーティーは少し苦手だし、やはり年越しは静かに迎えたい。そんなわけで、隣室の人達と静かにケーキを食べ、こうして日記を書いている途中で新年を迎えた。

A Happy New Year, 1999! Good Bye, 1998.
今年もいい1年にならんことを。

 

1998年の大晦日から元日にかけて

クネイトラ その1

ついに1998年の大晦日をダマスカスで迎えることになった。

今朝はクネイトラへ行くべく、早く起きた。しかし、残念なことに、雨が降り続いている。パーミッションは今日限りなので、クネイトラへは今日行くほかなく、HさんとJさんは傘を買いに出た。それをロビーで待つ。

10:00頃、彼らが帰って来たので宿を出て、前の大通りで、行く先をアラビア語で書いてもらった紙を手に、バス・ターミナル(バラムケ)行きのセルビスをつかまえる。

バラムケでセルビスを乗り換えるのだが、どのセルビスに乗るのかわからない。いろんな人に聞くが、みんないろんなことを言って、ますますわからなくなる。
道端に、何のためのものか知らないが、電話ボックスのような小屋があり、そこにいた人に道を聞くと、その人はボックスから出て来て、セルビスを止めて道を運転手に聞き、それから私達に教えてくれた。

バス・ターミナルでも「クネイトラ、クネイトラ」と騒いでいると、ミクロ・バスの中のおじさんがクネイトラ行きセルビスまで連れて行ってくれた。まったく親切な人達だ。

雨の中をセルビスはひた走り、乗り換え場所と聞いていた街を過ぎてしばらく行ったところで、案内人を乗せた。バスを乗り換えるものと思ってたが、その必要はなく、そのままセルビスは行ってくれるようだ。だが、ここで値段交渉が始まる…結局、3人で125SPで落ち着いた。3で割り切れる金額にして欲しかったが、まあ、しょうがない。

道中見ていると、クネイトラには完全につぶれた家が点在している。セルビスはまず病院跡へ行った。病院の壁は落ち、崩れ、壁は外も中も弾痕だらけだ。それも半端な数ではない。病院ですらこの様では、かなり激しい戦闘だったのだろう。病院の外壁には「この病院はシオニストによって破壊された云々」と書かれている。

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クネイトラの病院跡

それからセルビスは教会の前を通って軍事境界線に着いた。シリア側の事務所へ行くと、中には2人の軍人のような制服を着た人がいて、しばらくストーヴにあたらせてくれた後で、一緒に外へ出て、いろいろと説明してくれた。1969年にイスラエルが侵攻して来て街を占領し、1974年にそれを押し戻したそうだ。本当かどうかは知らない。

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クネイトラの病院跡の内部

ゴラン高原は残念ながら天気が悪くて見えず、しかし、2人のシリア人は、雨の中傘もささずに、熱心に説明してくれた。

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ゴラン高原…の方向

1998年の大晦日

ウマイヤド・モスクへ

少し休んでから、ウマイヤド・モスクに出かけた。

最初にスークを通り抜けなければならない。ここのスークはアレッポに比べると大きく、歩いていると多くのシリア人から英語、日本語で話しかけられる。ほとんどカーペット屋かアンティーク屋だ。

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ダマスカスのスーク

スークを抜けるとウマイヤド・モスクだ。チケットを買って(10SP)、中に入る。

石の中庭の一面に大きな構造物があり、モザイクで金地に緑の植物が描かれている。大きく、そしてきれいだ。

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ウマイヤド・モスク

もう一面の回廊にも同じようなモザイクがある。これも金と緑に満ちている。

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ウマイヤド・モスク

中に入ると列柱が並ぶ中、たくさんのシリア人が祈っている。薄暗い照明の中、何を言ってるのかわからないが、アラビア語の説法のようなものが響き、静かな、穏やかな気持ちになれる。

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ウマイヤド・モスクの内部

ただ、遠慮もなくフラッシュをたいて写真を撮る観光客がイヤだった。ここはイスラム教の聖地、祈りの場なんだから。
ともかくここの雰囲気はよかった。ダマスカスを去るまでにまた来るつもりだ。

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ウマイヤド・モスクの内部

宿へ帰り部屋に1人でいると、同室のHさんが帰ってきた。アザーン・ウォッチを買って。
アザーン・ウォッチは目覚ましの時、あるいは任意のときにアザーンが鳴る。イスラム圏にいるうちにアザーンに耳が慣れてしまい、ないと寂しいような気がして来ている。こういうお土産もいいかもしれない。

日の入り(16:30のアザーン)を待って、明日、一緒にクネイトラへ行く3人で食事に出た。トルコのロカンタ風の店で、ライスとおかずで35SPだった。安い。

今日はちゃんとシャワーを浴びることができた。明日はいよいよクネイトラだ。

クネイトラへ行く準備

夜の寒さについてだいぶ聞かされていたから、ズボンの下にジャージをはき、シャツのまま寝るという重装備で挑んだけど、寒さはさほどでもなく、ゆっくり眠ることができた。

ドミトリーで同室となったHさんとパン、牛乳を買いに出て、その時の話から、明日、一緒にクネイトラに行くことになった。

ホテルの中庭で食事をとっていると、これまでにも別の町で一緒になったことのあるTさんとT君がチェック・アウトして、バスを待っていた。
Tさんはアンマンへ、T君はパルミラへ向かうのだ。T君を見送り、しばらくして戻って来たTさんに別れのあいさつを済ませて、Hさんと一緒に12:00過ぎにクネイトラへ行くパーミッションを取りに行った。

クネイトラはこちら。ダマスカスから南東に40kmくらい行ったところ。

 パーミッションを取るところへ着いた。内務省だったような気もするが、自信はない。
キョロキョロしていると、そういう外国人がよくいるからだろうか、その辺にいた人が「クネイトラ、クネイトラ」と言いつつ、どこへ行けばいいか教えてくれた。
その建物の前にいた人にパスポートを渡すと、その人は建物の中に消え、10分ほどするとパーミッションの用紙を持って出て来た。この人は親切に、どこからクネイトラ行きのバスが出るかを地図を示しながら教えてくれ、その場所の名をアラビア語で書いてくれた。

帰りも同じ道を歩いて帰る。この辺は各国大使館が並んでいる。T君の話だと、アメリカ・イギリスによるイラク空爆に抗議するデモで壊されたイギリス大使館があるそうだが、それは見なかった。途中、陸橋の下の公園のベンチに座って、シャイを飲む。

帰ってホテルの中庭で休んでいると、隣室の女性が帰って来た。話の流れで、彼女も一緒にクネイトラへ行くことになる。

 

1998年12月のある日

ダマスカスに着いた

ダマスカスのバス・ターミナルでバスを降りると、たちまち20人ほどのタクシーの運転手に囲まれた。みな「オレの車へ来い」「いくら払う?」「いや、奴はBad Boyだ」とか口々に言いながら集まって来る。
中の一人は勝手に人のカバンを持って自分のタクシーの方へ行こうとする。カバンを取り戻し、セルビスを探しに行くと、そのカバンを持って行こうとした運転手がマルジェへ行くセルビスを教えてくれた。何か妙な人達だ。基本的にしつこくなく、人がいい。

セルビスはなかなかマルジェ広場につかず、少し不安になった。だが大変なのはセルビスを降りてからだった。地図を見ると陸橋があると書かれているんだが、陸橋は2つあるのだ。しかも目の前に大きく見えている陸橋は間違ってる方だったんだが、最初はそれに気づかず全然違う方向へ進み、その辺を探して散々歩き回った。店のおやじさんに道を聞くと違うことを教えられるし、最初はがんばって歩いていたが、次第に荷物の重みがずっしりと肩にのしかかったきて気がめげてきた。

とうとうあきらめて道端に立っていた警官に道を尋ねると、彼は知らなかったが、交差点にいた白バイの警官を呼んでくれ、途中から英語を少し話す通りがかりのおじさんも加わって教えてくれ、無事アル・ラビを発見できた。やれやれだ。ダマスカスに来たっていう感慨も何もなかった。

レセプションへ行くと、イスタンブルのドミトリーで一緒だったTさんがいた。グルジアへ行くと言ってたのに。話を聞くと、最後に土産にグルジア・ワインを買って帰りたいから、まずダマスカスへ来て、それからシリア→グルジアイスタンブルと帰るそうだ。そこそこ大変な思いをした後で知り合いに再会できて、ほっとした。

晩は同じ宿の日本人のみんなで、トマト・スパゲッティをつくった。1kgのスパゲッティを苦労して茹で、作ったんだが、味はいまいちだった。ともあれ、多くの人と会食するのは楽しい。

ここはホテルとしては期待してたほどではない。暖房はないし、シャワーも24時間ホットシャワーではない。少しガッカリだ。ハマのリアド・ホテルが良すぎたんだろうけど。