ぱらりーそーしー日記

タイトルに特に意味はありません。子どもの造語がかわいかったので、タイトルに使いました。本、子育て、映画、旅行等。たまにしか投稿しませんが…

みんな、演じていたのか〜建前と本音

大学を出て就職した頃、課長とか部長とか「偉い人」は偉く思えたものでした。どーんと構えていて、「失敗してもどうにかしてやる」みたいな雰囲気があったような気がします。

やがて自分が偉くはないけど歳だけは当時の「偉い人」の歳になってみれば、課長も部長もそれほどには偉く見えません。みんな、結構フツーの人です。やはり普通である自分と歳も近いし、彼ら彼女らが普通に見えるのは当たり前なのかもしれませんが。

当たり前のことなのでしょうが、同時に、普通の人が偉い人の役を演じていたのだろうとも思います。
自分はそんなに大層な人間ではない。だけど、そういうポジションについてしまった以上、それらしく行動しないといけない。そうやって演じているうちに、その中の一部の人は本当に「偉い人」になって行くのかなと思ったり。

当時とは年齢が違うからそう感じるというのが正解なのでしょうが、いくらかは、今はあまり演じなくなっているようにも感じられます。演じるということがその責任を果たすこと、と言えなくもないのでしょうが。

なんてことを考えていると、加藤典洋氏の「日本の無思想」を思い出しました。

難しくて、自分が理解しているとはとても思えませんが、「本音と建前」についても書かれていたように記憶しています。ある時期から本音と建前が逆転しているというような話で、とてもおもしろい考え方だと思ったのですが、自分には難しかったようで、おもしろかったということは覚えていますが、内容はあまり覚えていません。お恥ずかしい話で。

これに絡めて「偉い人」の話を書こうと思いましたが、やはり手に余る感じがするので(自分は理解できてないとあらためて明らかになったので)、それはやめときます。

「偉い人」を演じなくなる、つまり虚構であったとしても支えになっていた建前がなくなってしまうと、何が起こるのか。人を縛り苦しめる建前はもちろんNo, thank you.ですが、かといって全く建前がなくなると、支えを失っていろんなことがグダグダになってしまいそうです。

以下は加藤氏の論旨を辿るものではないことをお断りした上で言いますと、例えば、先日、西田昌司参院議員が性的少数者のための法案について、「差別は許されない」という文言について「かなり厳しい対立を生むような言葉遣いで日本の国柄に合わず…」と言ったそうです。

一般的には「差別は許されない」が建前で、「国柄に合わず」等は本音になるでしょう。

ここで本音が大事で建前は建前だからどうでもいいとなると、どうなるでしょうか。江戸時代には被差別階級を作って社会を安定化させようとしたかもしれませんが、現代では差別を容認すると、かえって社会は不安定化するのではないでしょうか。「差別は許されない」という「建前」を守ることは大事です。

建前に息苦しい思いをして来た人が多いから「ぶっちゃけ」が流行ったのでしょうが、建前が何でもかんでもダメというわけでもなさそうです。

ちなみに、加藤典洋氏の「日本の無思想」は1999年に出ていて、キムタクの「ぶっちゃけ」が流行ったのは2003年のようです。加藤氏の慧眼だったのでしょうか。

今「ぶっちゃけ」てる人がいるとすれば、当時はその時のアンチテーゼとしてよかったかもしれませんが、今は一周回ってちょっとかっこ悪い感じはします。大人になれてないといいますか。

とりとめのない雑想で失礼しました。